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本書は,室町幕府政所の文書の手控えを江戸時代に写したもので,南北朝時代から戦国時代までの,洛中での徴税や九州の所領問題などさまざまな文書の写しが収められている。そのなかに,永享12年(1440)に関東で勃発した結城合戦に関して,政所執事伊勢貞国(いせさだくに,?-1454)が関東の諸大名たちに送ったと思われる書状の草案も11通あり,いずれも他には伝わらない貴重な内容を含んでいる。
結城合戦とは,永享の乱(1438-39)で鎌倉公方足利持氏が室町幕府と対立して滅んだのち,下総の結城氏朝らがその遺児を擁して起こした反乱である。幕府は上杉氏や千葉氏など関東の諸将に対応を命じつつ,京都から軍勢も派遣して嘉吉元年(1441)4月に鎮圧した。掲出した画像は,永享12年3月末,謀反が発覚する直前の結城に伊勢が送った書状案の写し(日付などは次頁)で,当初幕府よりの態度を示した結城が褒美を与えられていたことなどが記されている。ただし,このときすでに結城は挙兵しており,幕府の予想をこえて関東の情勢が刻々と変化していたようすがうかがえる。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代末期から戦国時代初期に上野国の新田岩松氏に仕えた長楽寺(現在の群馬県太田市に所在)の僧,松陰軒(1438-?)の回想録。新田岩松氏の動向や関東の状勢を伝える貴重な史料だが,松陰軒の自筆本は現存せず,新井白石(1657-1725)が書写した本書も第1・3を欠いて全文は伝わらない。
画像は,文明8年(1476)に関東管領上杉顕定の重臣長尾景春(1443-1514)が主家に対して起こした「長尾景春の乱」に関する箇所(第5)。このころ,上杉氏は利根川を挟んで古河公方足利氏と争っていた(享徳の乱,1454-82)が,景春は主人顕定らと対立して,鉢形城(現在の埼玉県寄居町に所在)に立て籠もった。翌9年,景春は上杉方の本陣武蔵五十子(いかっこ/いかつこ,現在の同本庄市)を壊滅させたものの,各地の景春派は上杉方の太田道灌らに鎮圧され,古河公方と結んで抵抗を続けた景春もまもなく没落した。その後も再起を繰り返し,晩年には越後の長尾為景(上杉謙信の実父)や伊豆の伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)と結んで顕定と戦い続けた景春は,関東の戦国時代の幕開けを象徴する人物のひとりに数えられる。
(図書寮文庫)
室町時代前期の陰陽師である賀茂在貞(かものあきさだ,1388-1473)が,2月の末に貴族の万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)に送った書状。上巳の祓に用いる人形を進上しますと伝えている。時房は,受け取った書状の紙背(裏面)を自分の日記『建内記』の嘉吉3年(1443)2月30日条の料紙として用い,「在貞から人形が到来したので枕元に置いた」と記している。人形を身近に置いて罪や穢れを移した後,また在貞に返して祓えが行われたと考えられる。伏見宮家旧蔵本。
(図書寮文庫)
本図は「天神さま」として親しまれる菅原道真(845-903)の肖像画。左遷された道真が大宰府で失意の内に没した後,異変や災害が頻発したため,朝廷はこれを道真の怨霊の仕業と考え,名誉回復を図ることで鎮魂につとめた。永延元年(987)8月5日一条天皇は道真に「天満天神」の号を贈った。学問の神として広く信仰されたのは江戸時代以降,寺子屋の守り神として崇敬されたためと言われている。
その道真の肖像画には公家の装束である束帯姿のものと,中国風の法衣をまとったものがある。道真が神通力で唐に渡り,中国の高名な禅僧無準師範(ぶしゅんしはん)の弟子になったという「渡唐天神」伝説が室町時代に広まり,盛んに中国風の衣装の渡唐天神図が作られた。梅の枝を持つのは,道真が大宰府に流される時に詠んだ「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」による。本作品は室町期に描かれ,五摂家のひとつ九条家に所蔵されていたもの。
(図書寮文庫)
室町時代の文安元年(1444)に成立した古辞書。下学とは,手近で初歩的な学問という意味であり,その内容はとくに初学者・幼年者を対象としている。作者は不明だが,禅宗の僧侶と推定される。
3110語に及ぶ鎌倉・室町時代の言葉が,天地門・神祇門・時節門・飲食門・数量門などの18門に意義分類される。その一つに気形門(気形とは生き物のこと)があり,虫に関する言葉が掲載されている。それぞれの言葉の右側と左側には読み方がカタカナで配され,また半数以上の語に,詳細な注釈が漢文で添えられており,初心者の学習に適した,百科事典的な内容となっている。
本書は,室町時代の写本で,その後,塙保己一(1746-1821)が設立した和学講談所に所蔵されていた。
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蹴鞠は,鞠を蹴り上げる技と回数を競う遊戯で,大陸から伝来したとされるが,その起源や伝来時期について,詳しいことはわかっていない。日本においては,12世紀には盛んに行われ,特に後白河天皇(1127-92)は,蹴鞠の名人であったとされる。後世「鞠聖(きくせい)」と神格化される藤原成通(なりみち)は,「蹴鞠は遊び事なのだから,夢中になって楽しめばよい」と語ったとされているように,本来は純粋な遊戯として,日本でも広く受け入れられて流行した。平安時代以降の貴族社会では,作法や装束・施設・用具などが細かく取り決められ,鎌倉時代後期の13世紀には,現在に伝わる蹴鞠の形がほぼ完成したと考えられている。
本書は,永徳元年(1381)3月と応永15年(1408)3月に開かれた蹴鞠会の様子を,古記録などから室町時代の末期に書き抜いたもので,画像は応永15年3月に足利義満の邸宅北山殿において開催された蹴鞠会の会場図。会場(鞠場)には「懸の木」と呼ばれる4本の柳が描かれ,その両脇に競技者(鞠足)が立って行われていた。懸の木は,蹴り上げられた鞠の軌道を不規則にして競技性を高めるために,鞠場には必須の設備とされていた。
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本書は,後小松天皇(第100代,1377-1433)宸筆の書状である。年未詳ながら,宛所(宛先)はないが,書止に「謹言」と書いているところ,天皇周辺の然るべき御身分の方宛てに書かれたものである可能性がある。内容は,短冊や詠進に関することが記されており和歌御会などに関するものと推察される。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代中期の公卿洞院実熙(とういんさねひろ,1409-59)が後花園天皇(第102代,1419-70)に宛てて記した仮名の消息(書状)である。消息の裏に書かれている宛先は「勾当内侍とのゝ御局へ」と,天皇の近くに仕える女房宛てになっているが,文末に「御心え候て,御ひろう候へく候」(この旨をよくお心得になって,よろしく御伝達ください)とあり,実際の内容は天皇に対して記されたものとなっている。桂宮旧蔵。
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室町時代の公卿,万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)の自筆日記。内容は朝廷の儀式や所領経営の他,時房は室町幕府との連絡役であったことから,室町幕府の動向も詳しく記されている。画像は嘉吉元年(1441)6月24日条で,赤松満祐(あかまつみつすけ,1381-1441)が室町幕府第6代将軍足利義教(あしかがよしのり,1394-1441)に対して反乱を起こした嘉吉の乱(1441)に関わる伝聞記事。
(図書寮文庫)
室町時代,公卿山科家に仕えた大沢久守(おおさわひさもり,1429-98),重胤(しげたね)等の自筆の業務日記。特に久守は立花の名手としても知られる。主家山科家に関する記述を主としながらも,応仁の乱(1467-77)や土一揆の様子も記している。画像は延徳元年(1489)3月30日条で,近江国へ出陣中病没した室町幕府9代将軍足利義尚(よしひさ,1465-89)の遺骸を京に送る行列の中で,義尚の母日野富子(1440-96)が人目を憚らず号泣していた様子を記している。
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本書は,中国漢の時代に司馬遷(しばせん,BC140-?)によって編纂された『史記』を南朝の宋(5世紀)の時代に裴駰(はいいん,生没年未詳)が,のち唐の時代にも司馬貞(しばてい,生没年未詳)らが注釈したもの。内容は130巻で目録1巻を付す。『史記正義』ともよばれる。この本は,室町時代後期の公卿にして学者であった三条西実隆(さんじょうにしさねたか,1455-1537)によって書写された写本43冊である。奥書(書写の経緯を記した文章)によれば永正7年(1510)から同15年にかけて書写し,子息公条(きんえだ,1487-1563)が訓点(漢文の読み方を示した符号)を写したことがわかる。
(図書寮文庫)
本書は,後小松天皇(第100代,御在位1382-1412)宸筆による,応永17年(1410)8月29日に,山科教豊(やましなのりとよ,のちに家豊と改名)へ箏の秘曲「蘇合香」(そこう)を伝授されたことを証明する御伝授状で,天皇34歳の時の書。「蘇合香」は雅楽の曲の一つであり,インドのアショカ王(阿育王)が病に倒れた時,蘇合香という薬草を服用し,全快したことを喜んで曲を作ったことが由来である。序・三帖・四帖・五帖・破・急の六章からなっており,この時はそのうち四帖の拍子の取り方を伝授されたと考えられている。日付の下の書き付けは後小松天皇の御花押(署名を文様化したもの)。
(図書寮文庫)
本書は,後花園天皇(第102代,御在位1428-64)の宸筆をまとめたもので,画像は永享7年(1435)9月15日,父の貞成親王(さだふさ)に宛てられた御消息(手紙)。天皇17歳の時の書で,貞成親王書写の『金葉和歌集』等が天皇のもとへ献上されたことへの御礼と,和歌が「散らし書き」という書式で書かれている。紙の中途から書き始め,書き進めるにつれて余白に書いていくために次第に字も小さくなるため,大きな文字のグループから読んでいくことになる。
(図書寮文庫)
本書は,後土御門天皇(第103代,御在位1464-1500)の宸筆をまとめたもので,画像は文明13年(1481)9月13日,伏見宮邦高親王(くにたか)に宛てられたもの。天皇40歳の時の書で,親王が琵琶の秘曲「大常博士楊真操」(だいじょうはくしようしんそう)を伝授されたことにお祝いの言葉を述べられ,太刀を賜る旨が書かれている。「散らし書き」の書式で書かれており,本紙右側を3分の1ほど空けて書き始め,行の頭を段々下げて2グループ書き,さらに右端の下半分に続いている。
(図書寮文庫)
応仁元年(1467),室町幕府8代将軍足利義政(1436-90)が,陰陽道を司った公家土御門有宣(つちみかどありのぶ,刑部卿)に所領の領有を認めた文書。将軍の花押(御判)が書かれた「御判御教書」(ごはんのみぎょうしょ)は,主として室町幕府将軍が用いた文書様式である。有名な陰陽師安倍晴明の子孫である土御門家旧蔵。